ぼくのブログにもこんなコメントが寄せられるようになったよ!

これでぼくも一人前になれたかな!
さて。

以前、審判には権威など渡す必要がないと書いた、その件であります。
きのう広島戦での福留孝介のスーパーキャッチであります。
どこがどう見ても捕球していたプレーは一度はセーフと判定、しかし金本知憲監督の抗議があり覆ることとなった。いよっ、審判も超変革!そして現役時代、彼がボールと判定すれば球審もボールと判定せざる得なかったという噂は本当だったのか!なんてことはともかくとして、審判の判定が簡単に覆ったのには驚いた。金本監督が抗議に行かずとも、審判たちの協議をもってアウトに再判定されていたのではないか、そんなことを思わせる事態の動き方であった。
先に結論めいたことを言うが、あらゆるスポーツにおいて、権威は、審判ではなくルールにある。
先人たちが少しずつ形作ってきたルールにこそ権威がある。なぜなら、ルールは競技そのものとともに作られていくものであるからだ。「ボールを木の棒で打ち返す遊びをしようぜ!」という出発点も同じくルールである。「塁をつくって」すごろく風になり、「ボールの飛距離」で進むマスが増え、マスを1周できれば「得点」となる。実際にプレーしながら想定していなかった新しい局面に出会い、「この場合はこういう判定にしよう」と話し合いながら作られたのが野球である。こうして試行錯誤してきた先人たちの思いがルールであり、だからこそ権威が宿っている。そして、ルールはいまも形作られている途中。ルールブックを見よ、いまもなお新しい項目が書き加えられている。
もっといえば、ルールを運用するのは審判だけでなく両チームの選手たちも同じである。審判のみがルールを運用しているがごとく権威とやらを持ち出してくるから話がおかしくなる。権威は空から降ってくる、神から宿るというのなら、それは同じく審判にも選手たちにも降ってくるものだ。
そしてきのうの出来事についてだが、審判たちの振る舞いは先人たちが行ってきた「ルールを形作っていく」作業そのものであると思う。見間違いなど誰にもあることだ。そこを審判たちが自ら審議し、「ごめんね判定が間違っていたわ」と言う様は黎明期の野球において数多く経験されてきたことだろう。
審判に権威など渡す必要がない、とは書いたが、審判に権威は必要ない、とは書いていないし思っていない。審判がこれからも選手たちとともにルールを形作っていく思いがあるのなら、権威は自ずから宿っていくものだと信じる。
参考文献
審判に権威を「渡す」必要はない。 : ちな虎お知らせのあとは「ちな虎」からのおねがいがあります!
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コメント
春休み最後の想い出コメントですかね。わざわざ認証文字打ってまでコメントしたかと思うと微笑ましいw
これはもう一人前の虎ブロガーと言っていいですね!
昨日のは他の審判も見ててみんなアウトやと思ってたのに一人だけセーフ判定しちゃったから覆ったんですかね
そうか。認証文字が必要ですよね。
だから悪い人ではないと思います。
あの審判はやってもうたーという感じでしょうが、金本サンを前に「審判だから正しい」とは行かないようですな。いままでは無理を通せば道理が引っ込むを地で行くことが多かったように思います。
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